36 すすきの高原

 7月13日

 「あ…あのさ、雄大くんに逢って欲しい人が居るんだけど…。」
俺達が結婚を誓ってから約1ヶ月。実結の逢わせたい人物は彼女の母親だった。いつも以上に躊躇うその言葉には、こんな経緯があった。
 実結は生まれてすぐ、父親の浮気が原因で両親が離婚。親権は母親に付き、物心付いた時には既に母親1人で養われていた。そんな実結と母親の間にも、実結が高校生の頃位から距離が出来始め、実結が短大へ進学する為に上京してから一度も連絡は無いという。だから実結が高校1年生の時に東京江戸川区から北海道に引っ越した、そのときの記憶のみを頼りに出発する事になった。
 行き先は札幌、すすきの。

 青函トンネルを抜け、久しぶりに車窓から明かりが入ってきた。トンネルで反響する走行音が途切れるのを見極めてか、実結は言った。
「本当は、東京に出て来てからお母さんに会うの…初めてなんだ。」
「えっ!?」
「短大に進学する為って言ったけど、本当は家出したみたいなもんだから…。」
長閑な北の大地を走る快速客車の中で、緊張の親子体面に向かう実結の手は、小刻みに震えていた。

 着いたのは、微かに市電の音が聞こえる小さなモルタル作りのアパート。緊張の面持ちで実結はインターホンを押す。
「お母さーん?」
応答は無い。実結はもう一度インターホンを押す。
「お母さーん、実結だよ?」
返事は返ってこない。共同通路に面している窓から覗いて見ても人の居る気配は感じられなかった。
「どうする…?」
俺たちは顔を見合わせた、そのときだった。
「上田さんなら、仕事に出ましたよ。」
通りかかった近所の人が、それを教えてくれたのである。
「実結、場所…わかる?」
「…うん。でも、あんまり行きたくない所。」
実結が中学まで住んでいた清新町からここ札幌に引っ越したのは親の転勤。つまり、母親の仕事の都合だった。
「お母さん、転勤してすぐにリストラされて、今は違う所で働いてるんだ。」
実結は今までより一段と声を小さく、こう言った。
「…でも、行くの怖い。」
どうして?
「お母さんの働いている所って…ナイトクラブなんだ…。」
確かに、そんな類を知らない実結に水商売や風俗店は恐怖の対象なのかもしれない。けれど、もっと深い意味の"怖さ"が実結にはある。俺はそう思った。
「大丈夫、俺がついてる。」
実結は小さく、コクリと頷いた。握る小さな柔らかい手。
「行こう。」
「うん。」

 5分も歩くと、狭い路地の雑居ビルに辿り着く。地下への階段を下り、ブラックライトに照らされた重々しい扉の奥。
「うわぁ…。」
やはりショックを隠せない実結に俺は尋ねる。
「ここ来るの、初めてなのか?」
すると実結は首を縦に振った。俺の手を固く握ると、徐に店内を歩き始める。

36話続き


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