13 春待ち風

   4月7日

 入社直後に待ち受けていたものは、鉄道知識の確認試験だった。運輸部に希望通り配属された俺は、その試験を受けることとなった。
 冷たい空気が試験中ずっと研修室の中を包む。鉛筆の走る音だけが耳に聞こえた。大した難はなくスラスラと解けるような問題だった。エアコンの音と鉛筆の音だけがしばらく続く・・・。
 試験から3日たって、指導運転士の富浦(とみうら)さんに呼ばれた。定年も近そうな初老のやせ細った背中からは、何故か貫禄を感じ取れた。まるで取調室のような会議室の中で、富浦さんはこういった。
「戸部くん。この間の試験、全部正解でね。昨日、部長から通達があったんで、ね。ちょっと急な話になるけど、無駄な研修は省いて、ね。車掌の乗務と運転の研修をしてくれないかね。」
まさか、こんな事になろうとは。履歴書では真っ白だった俺が、いきなりのエリート扱い。多少戸惑った後、俺は尋ねる。
「車掌と研修を同時にやるんですか?」
「うん。そういうことだよね。」
二人だけの会議室はしばしの間、沈黙が続いた。富浦さんはそれを切るかのように
「よろしいですか?」
「・・・はい。ぜひ、ぜひ、やらせてください!」
 最初、口を開きかけたときは戸惑いが残ったが、言い終わるまでに戸惑いは吹き飛んだ。なぜなら、俺の夢、愛香の夢に一歩近づいたのだから―

 晴れて俺は、超スピードな会社のの目論見で5月から車掌として働くこととなった。もちろん、研修も両立してだが・・・。
「私のお兄ちゃん、赤い電車の車掌さんなんだよ!」
たぶん明日、愛香は友達にこう言うだろう。

   5月1日

 昼下がりの京急久里浜のホームに、俺は立っている。車掌として、今日が始めての実地乗務だ。今日の乗務は研修を兼ねたものなので付添いの現役車掌が付く。今日の付き添いは、なんと亀戸さんだった。同じ「追浜荘」の104号室に住む車掌で、52歳になる。前と比べるとずいぶん白髪が増えたように感じる。
「こんなところでお会いできるとは嬉しいですね。」
亀戸さんは小さくこう言うと今日の行路の確認を始めた。時刻が迫るにつれ、だんだんと実感がわいてくる。先行の電車がホームを離れ、次発案内のパタパタが回り始めた。
「13:22 快特 高砂 8両」
来る・・・。

 赤いラインが見えてきた。1500形だ。俺は指導通り、線路を指差す。そしてその指をだんだん手前側に移し反対側まで確認する。そしてまた戻す。線路内の異常を確認するためだ。
「番号、51SH!種別、快特!行先、高砂よし!」
 前面の確認の後、前任者からの引継ぎである。まず、相手側から「快特、8両、異常ありません」の報告を受ける。はずだった。しかし、前任の車掌は俺を一睨みした後、すぐにホームを後にした。
「どういうことだ、研修と違うぞ・・・。」
俺は少し憤りを覚える。すると亀戸さんはこう言った。その言葉が信じられなかった。
「真面目にやってる奴なんかそういるもんじゃないよ。」
 気を取り直して乗務員室に乗り込む。各種機器の確認をする。その間にも発車時刻が近づき俺は構内放送用のPHSマイクを握る。
「乗り降り続いてください。快特高砂行き、ドア閉めます。」
これが俺の初構内放送の言葉だった。そして俺はドアの開閉をするため車掌スイッチを押す。側灯(車両の横側にありドアが閉まると消灯する赤いランプ)も消えた。戸ばさみもしていない。発車合図のブザーを鳴らす。
 1500形はゆっくりと動き出した。
「後方良し!」
後方確認の際、俺の鞄に括り付けられている愛香の写真に目が行った。小学校の入学式のときに撮った愛香の写真は、6歳の愛香の写真だった。その写真に目をやった後、再び視線を戻した。
「ご乗車有難うございます。横浜、品川、新橋、日本橋、浅草、押上、京成線方面、快特 高砂行きです。堀ノ内までの各駅と、横須賀中央、横浜、京急川崎、京急蒲田、品川、品川から途中押上まで各駅に止まります。次は北久里浜です。」
 自分の声が車内アナウンスとなって流れる。沢山の動作を着実に進める俺に、亀戸さんはこう言った。
「初めてなのに緊張してないねぇ。」
確かに緊張はない。不思議だが今までの日常の行為を繰り返しているようにしか思えなかった。俺は順調に1500形の快特を走らせて行く。

 「まもなく、金沢文庫、金沢文庫です。」
俺は車内アナウンスを終え、ドアを開ける。
「側灯、点!」
ホームには交代する車掌が待っている。
「快特8両、異常ありません!」
交代時の俺の報告に、交代する車掌は無視して車両に乗り込んだ。やる気のない今の車掌や久里浜での前任車掌に反感を覚えた。俺の見てきた京急とは違う。こんなはずではない。しかし、亀戸さんは俺に
「こういう奴らもいるんだよ。」
と言った。苛立ちよりも、衝撃のほうが大きかった。

 「ただいま。」
家のドアを開けると、愛香は
「おにーちゃーん!」
と言って抱きついてきた。
「愛香。今日、疲れちゃったよ。」
「"高い高い"して!」
「ああ。」
どんなに強い風が吹こうとも、愛香の笑顔はいつも優しかった。


第14話 草原 へ

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