16 夜のストレンジャー

   2000年、4月28日

 赤く煌く1000形の運転台で、俺は新町乗務区指導運転士の勝島さんの運転をじっと見ていた。この次の列車、2011Aは俺が初めて運転する列車だ。高鳴る鼓動を感じ、俺は顔を引き締めた。勝島さんの「進行!」の喚呼で更に拍車がかかる。街の灯りが段々近づいてくる。勝島さんはブレーキハンドルをきつく握った。
「了解、普通、川崎停車!」
打ち返しのブザーが響き、電気ブレーキの音とともに電車は減速していった。揺れ一つ無い完璧な停車、吹き抜けるブレーキシリンダの緩解(かんかい)音、そしてドアーが開く。
「緊張しているみたいだな。」
太く、かすれた勝島さんの声は俺にこう囁いた。
「はい・・・。」
俺は何とも言い難い気持ちになった。そんな俺の緊張を解そうと、勝島さんはこんな話題を持ちかけた。
「そういえば今まで駅務のほうをやっていたんだけど、君と同じように昇格して今月から車掌になった奴がいるんだよ。で、うち(京急)で最年少の女性車掌なんだってさ。相当可愛いって噂だぜ。」
そんな話題はどうでも良かった。俺の生返事に勝島さんは視線を外し遠くに目をやった。俺は少し申し訳なくなり下を向きかけた。ふと、何かが視界に入った。
「愛香?」
「えへへ・・・。来ちゃった。」
笑みを浮かべる愛香は少し照れくさそうにこう言った。
「お兄ちゃん、今日から運転士さんなんでしょ。だから、見に来たの。」
そんな愛香に「ありがとう。」と声をかけ、目線を逸らした。俺の心の中に"仕事と私事を一緒にするな”という考えがあったからかもしれない。そんな二人を、勝島さんは不思議そうに眺めていた。
「この子は?」
一息置いて、勝島さんは尋ねた。
「俺の・・・妹の愛香です。」
「こんばんは。戸部愛香ちゃん。」
この言葉を、俺は急いで訂正した。
「馬堀愛香です。」
俺のこの言葉を、勝島さんはよく理解しなかった。俺の袖を引っ張って愛香は、
「ねぇ、このおじさんも運転士さん?」
「ああ。運転士さんの先生だよ。」
「ふーん。」
愛香はこう言うと同時に、接近アナウンスが聞こえてきた。次の列車は2011A、快特 品川行き。少し解れた緊張が蘇ってきた。前灯の光がレールに反射し、光の軌道を作ると共に2100形の独特な走行音が聞こえてきた。
「あっ、ドレミ電車だ!」
愛香は進入する2100形にこんなあだ名をつけて呼んだ。そのあだ名は、起動時に可変電圧可変周波数インバータ(VVVFインバータ 直流電気を交流電気に変える機械)が発する音階から来るものだった。
 ドレミ電車は、川崎のホームに止まった。愛香は運転台のよく見えるすぐ後ろの席に座った。その瞳はキラキラしていて、とても眩しかった。
 機器は全て正常に動いている。ブレーキ圧も架線電圧も異常はない。勝島さんは俺の隣で畳み掛けるように
「初動ブレーキ忘れるな。回生失効したらすぐにB5に入れるんだぞ。それから・・・」
沢山の注意を遮るかのように、発車のブザーが鳴った。ドアが閉まり、車掌からの合図が鳴る。
「第一出発、進行!ATSよし!快特、次、蒲田停車!」
俺はノッチを入れた。2100形は起動音と共に動き出した。その時、あまりにも簡単に操作できる運転に不思議な感覚を覚えた。
 六郷橋を渡り、90km/hの速度制限が顔を出すあたりで車掌のマイク試験が入る。
「もしもし運転士さん。連絡マイク、感度如何でしょうか。」
その声は、かなり幼い感じの女性の声だった。
「こちら感度良好です。」
「こちらも感度良好です。よろしくお願いします。」
「お願いします。」
俺の言葉を最後にマイク試験が終わり、車掌のアナウンスが入る。
「ご乗車有難うございます。京急蒲田方面、快特 品川行きです。京急蒲田、品川の順に止まります。この電車は終点品川まで先です。次は京急蒲田です。羽田空港方面後利用のお客様は・・・・」
小、中学生ぐらいに聞こえる幼い感じのアナウンスは、さっきの女性車掌だった。まだ新人だろうか。少しぎこちない感じがする。俺も人のことを言える立場ではないが・・・。
 京急蒲田を過ぎ、品川へ再び列車を走らせる。あと少しで品川だ。春の夜の品川は、ネオンがまぶしかった。線路はそろそろ下りの勾配に差し掛かる。左、右と急カーブを経て北品川だ。今、最寄り駅を通過するこの列車で愛香は何を思っているだろうか。愛香と出会って、もう5年が過ぎようとしている。

 邪念を持つな―
 八ツ山の踏切の黄色と黒の縞模様が俺にそう警告した。運転のことだけに集中しろ。俺はゆっくりとブレーキをかける。線路のきしむ音と共に列車は減速していく。25km/hという低速の中、品川のホームが姿を現した。愛香と出会った5年後、俺は京急の運転士としてこの地に着いた。
 「到着、定時!」
品川の停車は、あの”運転の神”と呼ばれる勝島さんも驚く完璧な停車だった。だが、俺の頭の中にあるのは次に乗務する列車、2032Nの発車時刻だった。あと2分しかない―

 俺は列車を駆け降り、ホームを走ろうとした。突如、何かが俺に当たった。
「きゃっ!」
「!!」
俺はその場にたじろいだ。すぐに起き上がろうとすると京急の制服を着た女性が目の前にいた。一見すると中学生ぐらいに見える幼い顔だったが、とても可愛かった。何より驚いたのはその女性が愛香にそっくりだった事だった。
「す、すいません。」
向こうはこちらを見ずにこう言うと、二人の散らばった乗務鞄の中を片付け始めた。ふと、向こうは俺の顔を見た。
「雄大くん!?雄大くんでしょ!?」
「えっ!?」
「ほら、私だよ、私。中学校の時の!」
誰だ?分からなかった。そんな事を気にかける間もなく時計は発車時刻まで1分30秒を切っていた。
「すいません!」
俺はそう言うと、慌てて乗務鞄を持って1番線へと駆け出した。まるで訳の分からない事から逃れようとするかのように。
 「あっ、忘れ物。」
女性車掌は「乗務手帳 戸部雄大」と書いてある手帳を拾い上げた。
「きっと、雄大くんだよね・・・。」

 俺は帰宅すると、愛香は布団を敷き始めていた。おれは、愛香にこう告げた。

   ―愛香が、俺の最初のお客さんだったよ。―

 今日、久しぶりに愛香と同じ布団で寝た。愛香は寝息を立てる前、「ありがとう。」と俺に囁いた。愛香はすっかり寝静まると
「おにーちゃん。けーきゅーのうんてんしさんになったんだね。」
俺は、こんな愛香の寝言が嬉しかった。

 翌朝、電話のベルで目が覚めた。
「もしもし・・・


第17話 airly へ

鉄道長編小説「赤い電車に乗って」TOPへ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送