18 花と空

 翌日、何時もの様に出勤する。未だ朝ラッシュも終わらない頃に俺は乗務区の扉を開けた。何気なく見た出勤表。確りと出勤したことを示す為に自分の名が記されているマグネットを裏返す。と、ある文字が目にとまった。
「車掌 上田実結」
何だ。同じ(新町乗務区)だったのか。俺は何故か安心した。すると、俺は後ろから声を掛けられた。
「戸部くん。」
声の主は、鮫洲さんだった。同じ出区時刻で乗務に入る2人は、出発まで多少の時間があった。そして、鮫洲さんは時計に目をやると、取り止めも無く俺に話し掛けた。
「"運転の神様"の指導運転かい?」
「勝島さんですか。」
鮫洲さんはゆっくり頷く。
「君も未だ運転になってから2ヶ月無いだろう。ってことは仕事がある度に添乗するんでしょ。勝島さん。」
「ええ。」
「あの人は厳しいからねぇ。気をつけたほうが良いよ。なんて言うか、ほら、江戸っ子気質だからさ・・・。」
鮫洲さんは、そう言い終ると話を変えた。
「ところで今日、もしかして同じ列車に乗務するんですか?」
「どうでしょう。」
俺はスタフ(乗務員行路表)に目を落とした。
「663H、724H、739T・・・。」
俺は今日の行路を呟くと、鮫洲さんは
「同じ列車は無いね。」
と小さく言った。鮫洲さんは少し残念そうに後ろに向き歩き始めようとした。咄嗟に、俺はこんな質問をした。
「すいません。今月車掌になった上田さんってご存知ですか?」
それは、実結の事を尋ねるものだった。
「ん、うん。もちろん知ってるよ。あの可愛娘ちゃんだろ。」
鮫洲さんが言うには、実結は今月乗務区に入ったばかりなのに、男性乗務員から既に絶大な人気を誇っているらしい。鮫洲さんは続ける。
「ははぁ。惚れたな、お前。何だ、カッコつけたい年頃なんだねぇ。」
という具合に俺をちゃかした。俺は思わず、
「ふざけないで下さい。」
と睨んで言った。鮫洲さんは目で合図して謝ると、真剣な表情で俺を見た。
「で、上田さんが如何かしたのか?」
漸く来たこの質問に、俺は昨日あった事を全て話した。前の日に一緒の列車に乗務した事、品川のホームでぶつかった事、落とした乗務手帳を渡してくれた事、俺と中学時代に一緒だったと言っていた事。そして、"あの日の約束"の事・・・。鮫洲さんは深く頷いた後、
「下手に思い出そうとしないほうが良いと思う。大きな空でも眺めて、自然に答えが出るのを待ってごらん。」
これが、新町乗務区主任車掌の言葉だった。鮫洲さんは真面目な顔でそう言うと、がらりと笑みを浮かべながらこういった。
「でも古臭い出会い方だなぁ。本当にそんな事あるの?何処ぞの三流メロドラマみたいじゃん。大体、ぶつかった事が出会いのきっかけなら俺だって最初っからぶつかってるよ。」
鮫洲さんは一変してからかい半分でこういった。
「悪かったですね。」
俺はそう言い残すと、すぐに乗務区を後にした。
「青春だねぇ。」
鮫洲さんは、小さく呟いた。

 「了解、普通、新逗子停車!」
13時過ぎ、俺は難なく800形を新逗子に走らせた。隣で驚きの表情を見せる"運転の神"とは裏腹に、何時もの調子で列車を降りた。方向幕が折返しの「普通 川  崎」に変わったことを確認したのを最後に、俺はホームを後にした。次の乗務は、1361(列車番号)、13時47分発。
「あと45分か。」
スタフを見て、俺はこう洩らす。俺の足取りは駅務室へと向かっていた。少し長い連絡通路を経て、俺は静かに駅務室に入った。お客様の清算を済ませた細長い駅員が此方を向いた。
「ああ、戸部さん。」
「五反田さん。どうも。」
五反田さんは乗務鞄を下げた俺に、驚きの表情を見せる。
「へぇー。もう運転士ですかぁー。愛香ちゃんも喜んでるでしょう。」
「はい。お蔭様で。」
「次に乗務する列車は何分なんですか?」
「(13時)45分です。」
五反田さんは高そうな腕時計に目をやった。
「結構あるじゃないですか。少しのんびりしましょうよ。」
そう言うと、五反田さんは
「高田さん、改札頼みます。」
ともう片方の駅員に声を掛けると、俺を奥の休憩室へと連れ込んだ。五反田さんは深く息を吐くと、制帽を脱いで机の上にゆっくりと置いた。

 「へぇー。新町のマドンナと。」
「はい。で、俺、乗務手帳を落としたんですよ。そしたら翌日届けてくれて・・・。」
昨日と一昨日の出来事を、五反田さんはその謙虚な性格からか親身になって聴いてくれた。
「最後に、"あの日の約束"って・・・。」
「それ、覚えているんですか?」
「全く。」
五反田さんは眼鏡を掛け直した後、俺にこんな事を口にした。
「女の子って"約束"とか"思い出"とか結構大事にするんですよ。私も以前、美咲に「誕生日にあらいぐまの縫いぐるみ買ってあげる」という約束を忘れて大変な思いしましたからね。」
五反田さんは続けた。
「でも、そういう約束は無理に頑張っても思い出せないと思いますよ。そんな時は心の中で何かを思い浮かべてください。丘にある花畑なんか良いんじゃないですか。チューリップでもコスモスでも。そうやって花々を見ながら心を休めていれば、自然に思い出しますよ。」
言葉は、いかにも五反田さんらしい答えだった。最後に五反田さんは俺の肩を叩くと、笑顔で笑って見せた。照れ臭くなって下を向いた。机の上に御守りが置いてある。俺の物ではない。五反田さんのか?よく見ると、名前が記されていた。
「かたくら みさき」
「かたくら、みさき?」
「あっ、これですか?」
五反田さんは御守りを手に取った。
「片倉って・・・。」
「はい。私の家庭の中で、"五反田"は私1人です。」
五反田さんは爽やかにこう言い切った。
「私、幼い頃に両親が離婚して、母方の親戚に引き取られたんですよ。だから美咲は、私の従妹です。」
波乱万丈な過去ををサラサラと言ってしまう細長い五反田さんが、とても逞しく思えた。
「さあ、もう時間です。行ってらっしゃい。」
俺は再び運転台に着いた。
「出発、進行!ATSよし!普通、次、神武寺停車!」

 鮫洲さんと五反田さん。俺に掛けた言葉は
「自然に答えが出るのを待て。」
これだけだった。花と空のハーモニーは、俺の心を癒してくれた。
―退区は14時30分か。愛香の帰りに間に合うな―
愛香と遊んで、もっと癒されようかな。


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