22 こころ

 実結は、ゆっくりと愛香に語りかけた。しかし、その内容は俺には聞き取れなかった。唯、最後に「愛香ちゃんは悪くない。元気出して。」という部分を除いては。
「うん!」
愛香の元気な声が聞こえた。だが、心の底から喜ぶことは出来なかった。これでいじめが無くなるという訳ではない。むしろ、明日も、明後日もいじめは続くと思う。愛香を元に戻すには、心のケアより元凶を倒す他ならないのだ。
「雄大くん。終わったよ。」
そんな事を考えていると、実結は部屋から出てきた。
「お、おい。」
「えっ?」
「おにいちゃん、いるの?」
「あ、ごめん。」
愛香は俺の姿を見ると頬を膨らませた。
「ごめんね、愛香ちゃん。」
実結は、すまなさそうに愛香に言った。
「ううん。また、沢山お話しよう。それから、御守り有難う。また一緒に遊ぼ。」
愛香はそう言うと、実結に小指を立てた。
「約束だよ。」
「うん。嘘ついたら針千本飲〜ます。」
実結はそう言うと、明るく笑った。俺は、そんな実結が太陽のように見えた。明るくて、優しくて、こんな人間に今までであったことがあるだろうか・・・。
「愛香、実結ちゃんとどんなお話したの?」
「ん、内緒ー。」

 「べらんめぇ!お客様にとって腕の悪い運転士なんざぁ死んじまえって思われるんだよ!」
今日の朝は、勝島さんの怒鳴り声で始まった。俺は、年上だが同期の新人運転士が喝を入れられているのをぼんやりと眺めていた。それは、何一つ変わらない日常の光景だったからだ。だから何とも思わなかったのかも知れない。
 ふと、後ろから声が聞こえた。それは、明らかに俺に向けられたものだった。
「ハッ、あれが"神の子"か。」
「あんなぼんやりした若蔵が。」
「俺たちもなめられたもんだな。」
そう言い残すと、この声は歩き出した。
「・・・悪かったな。」
何なんだよ。"神の子"って。
「さあ、行くぞ。」
威勢の良い勝島さんの声で俺は乗務区を後にした。今日受け持つ行路は線内普通(※)、しかも6連しかなかった。

 「いいか、この電車はレバースハンドルを"切"に持っていくと空気ブレーキが半減しないんだ。」
「・・・承知の上です。」
文庫のホームで、何時ものように勝島さんは注意事項を畳み掛けるように述べた。最初は新鮮だった運転士生活も、慣れてくるとつまらないものであった。
「そろそろ(発車)時刻だぞ。信号見ろ。」
俺は、「わかってますよ。」という具合に手を上げた。
「第一出発、進行。普通。ATSよし。発車定時。普通、次、能見台停車。」
「もっと声を出せ!」
「・・・はい。」

 もう夕方のラッシュも終わった京急川崎、電車を待つ間に勝島さんは俺に珍しくゆっくりと訪ねた。
「お前、なんで京急の運転士になろうと思ったんだ?」
其の場に、沈黙が流れた。俺は立ち尽くした。その質問に答えることが出来なかった。"幼い頃からの夢"では幼稚過ぎだ。
「・・・愛香のためです。」
勝島さんは、何も返事をしなかった。暫くして、静かに勝島さんはこう言った。
「その愛香って娘の話、俺に聞かせてくれねえか?」
俺は勝島さんに全てを話した。出合った時の事、今までの事、いじめに遭っている事・・・
「・・・そうか。それでその娘は今、いじめられているのか。」
勝島さんは口を再び開きかけると、次に乗務する電車が入ってきた。何かを言いたそうにしている勝島さんをよそに、俺は運転台についた。最近は、マスコンハンドルを握っても、ブレーキハンドルを操作しても、何の不安も緊張も無かった。ただ電車を目的地まで延々と走らせるだけ。それが俺の運転に対する思いだった。面白くない。
 そんな俺に、勝島さんは何度も言い聞かせた。
「いいか、乗務員ってもんはなあ、乗務する電車に命を懸けるんだ。どんな事があってもその列車を命懸けで守るんだぞ。」
この言葉は、耳に蛸が出来るぐらい聴かされていた。でも、今日はやけに特別に聞こえた。勝島さんは何を想い俺にこの言葉を掛けたのだろう。"電車に命を懸ける"?如何いう意味だ・・・。
 それでも俺は、終着まで完璧な運転をこなした。勝島さんは幾ら完璧に乗務がこなせても「心がこもってない」や「運転に愛が無い」と何時も言うが、今日は何故か一言も言わなかった。唯黙って、電車を降りた。

 「戸部、話があるんだ。いいか?」
乗務も終わったロッカールーム。勝島さんは俺にそう言うと椅子に腰掛けた。
「戸部、実はな・・・。俺の息子の、健一って言うんだけどよ、どうも最近グレたみたいなんだ。夜な夜なバイク乗り回しては未成年なのに酒に溺れて・・・とにかく大変なんだ。・・・なあ、どうしたら良いと思う?」
あれ程威厳を示していた勝島さんは、そんな悩みを抱えていたのだった。俺は唯、「わかりません。」と答えることしか出来なかった―。

 勝島さんのこころ、実結のこころ、愛香のこころ、そして、俺のこころ。俺にはその"こころ"が解らなかった―

(※)線内普通 京浜急行電鉄品川―浦賀・新逗子・京急久里浜間及び区間内を行き来する列車番号の末尾英数字が無い(例 571)普通車。通常、平日昼間時は北方は品川行きと京急川崎行き、南行は新逗子、浦賀行きの交互で運行される。希に空港線内折返や空港線直通、泉岳寺行き等もある。主に4、6連で運行。

23話 雲を友として へ

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