23 雲を友として

 あれから、1週間経った日曜日、仕事が終わった俺は北品川の改札を抜け、沈んだ気持ちで家路へ向かった。以前より愛香は元気を取り戻したものの、愛香のいじめは未だ続いていた。だから、何となく家へ帰るのが重苦しかった。家に帰ったら、大好きな愛香が傷ついているのではないか、涙を流しているのではないかと思うと、頭が痛くなった。愛香と出会う前の俺だったら絶対にそんな事を思っていなかったと思う。俺、変わったな―
 家のドアを空けると、唯静まり返った空間がそこにあるだけだった。誰もいない部屋は、何処か寂しげだった。
「東八ッ山公園か?」
折角の休みなのだから、思いっきり愛香と遊んでやりたかった。そんな考えで俺は公園まで愛香を探しに言った。

 「おら!ふざけてんじゃねえぞ!」
「邪魔なんだよ!消えちまいな!」
公園に着くと、そんな声と共に何か柔らかい物を殴ったり蹴ったりするような鈍い音が耳に入った。声は、恐らく小学生ぐらいの生意気な感じだった。俺は足を進めて行く。
「きゃっ!」
公園の声の主は、女の子を蹴った。女の子は・・・愛香だ。俺は走った。たった数十メートルを全速力で。
「おい、大人だ。」
「まずい。逃げろ!」
その声と共に、男子児童は公園を走り去っていた。俺は後を追わなかった。たった7〜8歳の子供のはずなのに何故か追いつく自信が無かった。
「愛香!」
愛香は蹴られた腹を押さえながら俺の顔を見ると飛びついてきた。とたん、声を上げて泣き始めた。
「大丈夫か?・・・何処か痛むか?」
俺は、嗚咽の声を上げる愛香に尋ねた。愛香は口を噤んだままだった。俺は次第に不安になる。
「おい、愛香?」
愛香は俺をきつく抱きしめると、声を震わせた。
「私、怖かったの。怖かったの・・・。」
愛香は更に力を強めて抱きしめた。
「俺の傍から離れるな。」
俺は、小さくこう言う事しか出来なかった。俺が言うと、愛香は号泣した。泣き叫ぶ愛香に抱かれ俺は其の場を動くことが出来なかった。唯其の場に立ち尽くし、何もしてやれない俺自身に苛立ちを覚えた。痣や擦り傷だらけになった愛香の全身がそれを大きくさせた。

 「愛香、大きくなったな。」
俺は、久しぶりに愛香を背負った。未だ涙を流し続ける愛香に、俺はこう囁いた。俺は、何一つ慰めの言葉を掛けることも出来なかった。傷ついた愛香を背負うだけ。悔しかった。悲しかった。無力な俺には如何する事もできない。俺が出来ることは、「愛香のため」名義で京急を運転すること。何故?俺は過去の記憶が無いから?人と付き合うことが苦手だから?子供の気持ちがわからないから?愛香の本当の親じゃないから?―
 違う。俺が無力なだけだ。どんな言い訳も無く本当に無力な俺、
「我ながら情けなくなるな・・・。」
北品川の風が、やけに冷たかった。

 家に着くと、すぐに俺は愛香を寝かせた。
「・・・お兄ちゃん。ありがとう。」
愛香は一言そう言うと、ゆっくりと眠りに入った。
「そういえば、この前愛香、実結に御守りも貰ってたよな?」
俺は、そんな事を思い出した。確か、アイロンで固めるビーズで作ったちゃっちい御守りをランドセルに括り付けてあった筈だ。部屋を見渡しきらない間にその赤いランドセルは見つかった。傷ついたランドセルからも愛香がいじめられていることがありありと判る。そのランドセルを見た。実結が手作りした不恰好な赤い電車の御守りは、紐の部分のみがぶら下がっていた。意図的に盗まれたような形で。

   ???何度目だよ、これ。

「ゆりあ、何してるの?」
「ん、うん。・・・詩、書いてるの。」
「・・・今度はテレビで歌でも歌うのか?」
「・・・うん。でも本当は一番愛してる人に歌いたい。心の御守りになるような歌を・・・。」
「・・・そうか。」
「なかなか思いつかないんだ。」
「・・・大変なんだな。」

 「お兄ちゃん、寝てる?」
愛香はゆっくりと声を掛けた。
「あっ、ランドセル!」
愛香は、いきなり俺からランドセルを奪い返した。そして、ランドセルを押入れの中に隠した。愛香は無言のまま、部屋を出て行った。
「おい、愛香?」
俺の言葉に、愛香は応えなかった。

 暫くすると、愛香は何も言わず家に戻り眠りについた。そんな愛香に、俺は何も言えなかった。寝息を立てている愛香の側で、俺は考え込んだ。
 俺、どうしたのだろう―。最近、自分がひどく小さな人間に思える。実結ともまともに話すことすら出来なかった。愛香に掛ける言葉も見つからなかった。仕事も、段々嫌になってきた。不規則な生活、訳のわからないエリート扱い、マンネリ化した完璧な運転・・・俺はこんな人生を送るために京急に入ったのか?運転士になったのか?大学の時は"京急の運転士になる"とかいう幼稚な夢を叶えようと必死だったから鉄道員の現状を知らなかったのかもしれない。だから、夢が叶った後のことを何も考えていなかったのかもしれない。運転士というものになってこれほどストレスを感じるものだと知っていたならば、俺はきっと違う道を選んだだろう。そして、そんな時に愛香はいじめに遭った。塞込んだ。あんなに明るくて元気だった愛香が―。最近、そんなストレスのせいか食事もあまり受け付けなくなってきた。

 北品川の夜の空に、暗くて小さい雲が見えた。そんな雲が俺のようで、怖かった―

24話 Cappuccino へ

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