26 美しき丘

   6月5日

 600形の大失態から、2日目の朝を迎えた。俺は、あの失態を未だ受け入れられず唯呆然と過していた。
「戸部、ちょっとこっちへ来い。」
突如、声を掛けられた。縮れた長髪をした小柄で40歳にして区長職に上り詰めた"カリスマ区長"こと、新町乗務区区長の館山(たてやま)さんだった。館山さんの手招きに従い後に続くと、そこは会議室だった。

 「明日から1週間、相武電鉄さんへ出向だ。」
冷たい空気が漂う2人だけの会議室で、館山さんは言った。
「えっ!?」
俺は其の言葉を一瞬疑った。館山さんは俺の表情を読み取って繰り返した。
「6月6日から6月13日までの1週間、相武電気鉄道さんに出向だ。」
相武電気鉄道、神奈川県北部を走る小私鉄だ。確りとした営業ポリシーや日本でも数少ない路面併用軌道橋等で多くの鉄道ファンの心を鷲掴みにしている。また、何年か前に起きた子供の置石による脱線転覆事故は記憶に新しい。京急が60年代に相武電鉄へ中古車両を無償譲渡をしていたことは富浦さんから聞いたことがある。また、相武電鉄との社員交流は向こうが新車を導入してから技術系社員の交流は多々あったらしい。しかし、いざ自分に出向の辞令が回るとは・・・。しかも、何故明日なんだ?あまりにも急過ぎる。本来は遅くとも1週間ぐらい前には連絡がある筈だ。
「何故・・・」
俺は問いかけた。それを遮るかのように館山さんは言った。
「聞くな。優秀な乗務員は指令に"何故"と問わないはずだろう?・・・相武電鉄さんが最近導入した2500形、あれはうち(京急)の600形と同じ足回りなんだ。それに以前から向こうとは関わりがあっただろ?本来なら勝島が行く予定だったんだけど、昨日交通事故に遭って急遽、お前に"ドン!"って訳だ。」
以前、運輸指令に務めていた館山さんから毎日のように言い聞かされていた言葉と共に、館山さんは言いくるめた。そして、続けた。
「相武電鉄さんにも連絡は取ってある。明日からいきなり乗務らしいから、今日は早く帰って寝ろ。」
 本当に、大変な事になった―

   6月6日

 「京浜急行電鉄様からお越しの戸部 雄大様ですね。初めまして。相武電気鉄道浅間森電車区検車班の当麻楓里(とうま ふうり)と申します。」
横浜線に揺られて40分、淵野辺のホームで待ち構えていたのは、一見すると中学生ぐらいに見える男だった。俺は差し出された手をつまらなく握り返すと、楓里は言った。
「噂はかねがねお聞きしています。宜しくお願いしますよ。」
そう言い終ると直ぐに、
「さ、こちらです。ついてきて下さい。」
そう言うと、楓里は足早に歩き始めた。
「これから向かうのは当社唯一の事務所、浅間森電車区です。」
俺を誘導しつつ、楓里は説明した。
「今日から1週間、運行、車掌、検車、駅務等を行ってもらいます。」
俺は其の言葉に頷こうとした。しかし、「運行」より後の言葉が信じられなかった。
「車掌?検車?」
俺の質問に、楓里はごく当たり前かのごとくさらりと応答した。
「当社のような小私鉄では、1人が沢山の仕事をこなさなければいけないのです。」
車掌、検車、駅務を運行と共に掛け持つ事、それは向こう(相武電鉄)では当たり前のことのようだった。だが、京急ではそれらを経験してからやっと運転士に昇格する。いわば運転士になる前の下積み業務のようなものだった。運転台に着かない仕事をやる事に、運転士としての俺のプライドが許さなかった。俺が反論をしようとした刹那、それを遮るかのごとく電車が入線してきた。吊掛駆動で床は木張りの古めかしい車輌だった。
「さあ、乗ってください。」
楓里はそう言うと、ゆっくりと浅間森行きの電車に乗り込んだ。

 「そろそろですよ。」
楓里の指示で青色の爽やかな色調の相武電鉄の制服に着替えた俺は、楓里にそう声を掛けられた。少しも経たないうちに、小ぢんまりとした浅間森電車区に秒針の振れる乾いた音が響き渡った。
「9:00。」
すると中に居た職員がわらわらと集まってきた。始業点呼だ。職員の中には女性もいるようだった。職員達の目は皆、やる気に溢れていた。
「平成12年6月6日、始業点呼を始めます。」
初老の区長が顔に似合わないハキハキした声で点呼を始める。一通りの内容を済ますと最後に、
「本日から7日間、京浜急行電鉄さんから出向の戸部 雄大さん運行班に就きます。」
と言うと目で俺を合図した。
「宜しくお願いします。」
手短な俺の挨拶を終えると、20代前半と思しき女性職員が今月の抱負を述べる。
「私達は、お客様の立場に立って行動します!」
それに続き、各職員が声を合わせて復唱する。
「私達は、お客様の立場に立って行動します!」
職員の気合が入った声が小さな電車区に木霊した。
「点呼終わります。」
職員は各自の持ち場へ素早く移動していった。だが、2人は其の場に残っていた。1人は楓里、そしてもう1人は先程の女性職員だった。女性職員は明るい笑顔で口を開いた。
「初めまして。ボク、運行班の葉山 翔歌(はやま とか)です。これから1週間、運行関係の指導担当します。宜しくお願いします。」
翔歌はそう言うと、ペコリと頭を下げた。
「どうも、京急の新町乗務区から来た運転士の戸部 雄大です。」
俺は名乗ると、2人は俺を乗務員待機室へと連れて行った。

 楓里は、幼く見えるその風貌で俺に尋ねた。
「覚えていますか?私の事。」
「? ・・・いや。」
「失礼致しました。人違いだったんですかね。何言ってるんだろう。あははは・・・。」
楓里は俺の言葉を受け苦笑した。と共に、不思議そうな顔をした翔歌が楓里に声を潜めて尋ねた。
「(先輩、戸部さんと前に会った事があるんですか?)」
「(2500形落成見学で東急車輌まで行った時、京急線でお会いしたような気がするんですよ。)」
2人の会話が終わると、楓里は研修の準備を始めると共に俺に何気なく尋ねた。
「あちら(京急)での運転は如何なんですか?」
そんな質問に俺はそれとなく返した。
「・・・運転士なんか簡単になれたし、鉄道車両の運転なんて大したことは無いですよ。」
と、呟き加減に言い終わろうとした其の瞬間、翔歌は両手を机に叩きつけ抗議の姿勢で声を張り上げた。
「簡単な訳無いじゃないですか!中にはなりたくてもなれない人だっているんですよ!」
部屋中に声が響いた後、一瞬の沈黙を置いて小さく翔歌は我に帰った。
「あっ・・・ご、ごめんなさい。」
俯いた翔歌を俺は驚きの表情で見るだけだった。
「・・・どうか御気に為さらないで下さい。彼女、運行班に復帰するのに大変苦労したんです。」
俺の肩を叩き楓里はこう言った。そして、そんな空気を切り替えるために、
「さて、相武電鉄線の運行についての研修を始めますよ、戸部さん。」
と、明るい声で言った。
 ―この後は実際に運転してもらいますからね。―
楓里の言葉で、俺は緊張を覚えた。

 相武の地の美しき丘で、俺の新たな挑戦は始まった―


製作協力・画像使用許可 N.Toyoshima様

27話 遠い青空 へ

鉄道長編小説「赤い電車に乗って」TOPへ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送