27 遠い青空

 パイプ椅子と長机だけで作られた浅間森電車区の研修室で一通りの研修内容が終わった後、最後に付け加えた。
「本日の浅間森13時11分発、1335にて当社代表の運行班、葉山翔歌と運転技量の直接対決をして頂きます。」
ませた子供に聞こえる楓里は翔歌に目をやった。翔歌の拳は小刻みに震え、緊張状態にあることが手に取るように分かった。そんな2人に、俺は尋ねようとした。
「何故そんな芝居染みた…」
「優秀な乗務員は指令に"何故"と問わない筈です。」
俺が自然とそんな質問をしようとした刹那、楓里はそれを遮るかのように言った。その言葉は、昨日立山さんが発した言葉と全く同じだった。そんな偶然を感じる俺を見据えて、一息置いて楓里は言った。
「これは当社と京急様からの合同辞令なのです。」
と、無理やり俺に理解を促した。
「では、そろそろホームに参りますよ。」
時計に目をやった楓里の言葉は、これから起こる何かを感じさせてならなかった。

 梅雨独特の気候で、ホームに立つとポツポツと雨が降り始めている浅間森のプラットホーム、楓里は俺と翔歌に口を開いた。
「では、これからルールを説明いたします。今回の列車は1335、普通 愛川田代行きです。戸部さんと翔歌さんには1駅交代で乗務して頂きます。先行は戸部さんです。使用車輌はデハ700形、当社現有最古の旅客電車です。台車以外の足回りは開業時に導入したデハ1形のものを流用しています。」
最後に一言声を掛けた。
「到着まで後2分少々です。私は終点の愛川田代まで添乗させていただきます。それでは幸運を。」
そう言うと、楓里はノートに何かを書き始めた。恐らく、今回の"対決"に関することだろう。そんな楓里を見ているうちに、電車はゆっくりと駅に進入してきた。見ると、先程乗った古めかしい車輌と同系だ。前任の運転士との引継ぎを済ませ、いよいよ"対決"の場所に足を踏み入れた。
 発車前、小声で翔歌は尋ねる。
「戸部さんって、あっち(京急)じゃ"神の子"って呼ばれるぐらいの運転技術をお持ちなんですよね?」
「神の子?」
その言葉は、まるで思いもしない物だった。不思議がる俺に、翔歌は少しばかり驚きの表情を見せた。
「京急さんに代々伝わる"運転の神"伝説、知らないんですか?」
翔歌がそう言うと、俺は頷いた。それを見て翔歌は、
「ふーん。でも、今日は絶対に負けませんからね!」
翔歌の目がひどく輝いて見えた。
「はいはい、そろそろ発車時刻ですよ。」
楓里の言葉で、俺は気を引き締めた。流れる発車メロディーと共に、俺の緊張が高まっていく。
「出発、進行。普通。」
デハ700形は、吊掛駆動の音を響かせながら発車した。

 右手に田名赤坂貨物船を見ながら走行する。近年の車輌と一線を画す手動進段のマスコン操作に、俺は慣れていなかった。
「戸部さん。手動進段方式のご経験は?」
「無い。でも、さっきの研修の通りには知らせれば良いはずです。」
その俺の言葉を信じたかった。楓里の質問に強がって応答する様に、翔歌は俺を楽勝の目線で見た。吊掛台車、手動進段、未だ嘗て俺が経験した事の無い未知の車輌での格闘が続いた。
 田名石神平が見えた。相武電鉄線は編成両数が少ないため京急よりホームが短い。京急と同じ感覚でブレーキを掛ければ過走するのは言うまでも無い。俺は、ホームより大分前からブレーキを掛け始めた。
「!?」
ブレーキハンドルからエアーの音と感覚が直に伝わる。
「SMEだ。」
時既に遅し、圧力計は一気に400kPaを指し、吊掛台車が悲鳴を上げて薙倒すかのような衝撃が車輌を襲った。
「SME(非常管付三管式直通制動)はブレーキシリンダに加圧したら直ぐに"重り"位置に持っていかないと加圧し続けますよ!」
楓里が声を張り上げた。忘れていた。SMEの存在を。そして、その独特な操作方法を。

 幾度もも車体を揺らし、何とか停車させることは出来た。だが、ありありと分かる停止位置のずれは、思わず目を逸らしたくなるものだった。ドアが開くと同時に、俺はブレーキハンドルとマスコンキーをバトンとして翔歌に渡す。受け取った細い腕からすら、溢れるほどの自信が伺えた。そして何より、翔歌の顔は「勝てる」という確信に満ちていた。
 翔歌が運転台に着くと、其の凛々しい真剣な表情がさっきまでの明るく快活なイメージが嘘の様だった。車輌のドアが閉まると、前方を勢い良く指差し、声を上げた。
「出発、進行!普通!」
その喚呼でさえ、俺より年下の筈なのに堂々とした威厳を感じるものだった。ふと、俺は不思議に声を出した。
「動いてる…?」
そう、翔歌の運転は、発車時のごく僅かな揺れも感じさせぬものだったのだ。発車した感覚が無い所為か奇妙に思えた。俺がそう感じている間にも、まるでベテラン運転士を思い起こすかのような手さばきで今は数少ない手動進段マスコンを扱っていく。進段する度に衝動が起こる傾向がある。と、さっきの研修で習ったばかりだが、翔歌の運転は全くそれを感じさせないものだった。翔歌は驚きの表情を隠せない俺をよそに、デハ700形を順調に駆っていった。

 久所(ぐぞ)の急勾配を物ともせず、デハ700形は久所に差し掛かった。
「着線指定、本線!進路1番!場内、進行!普通、久所停車!」
喚呼の声が運転台に響くと、翔歌はブレーキハンドルを徐々に動かし始めた。ブレーキシリンダの圧力をアナログで調整する路面電車のようなSMEブレーキを俺が悪魔と捉えたのとは裏腹に、自分の手足のごとく操っていく。その様子は、翔歌が運転していると言うよりも翔歌と車輌がシンクロしているように感じた。
 全くの揺れもなく、デハ700形は久所に定着した。
「車輌の心を読み取ることが出来れば、このぐらいは簡単ですよ。」
 翔歌は笑みを浮かべながら言うと、ブレーキハンドルを差し出した。

 「…もう、俺が運転する必要は無いでしょう。」
俺はそういうと、ブレーキハンドルを翔歌に返した―


製作協力 N.Toyoshima様

28話 せせらぎ へ

鉄道長編小説「赤い電車に乗って」TOPへ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送