40 星空の下

   7月20日

 終電が発車した後の物静かなホーム。俺と勝島さん、そして担当の各職員達が1番線で電車の到着を待っている。御召列車運行まであと3日。訓練の総仕上げとして、本番と同じ所要時間の電車を、本番と同じ成田空港〜三崎口の経路で運行する。勿論、車輌も600形の608編成だ。
「緊張してるか?」
勝島さんは尋ねる。
「別に…。」
ホームのピリピリとした雰囲気とは懸離れ、俺は今一実感が湧かない…気がする。唯、あの1185Hでやってしまった失態から来る600形への恐怖感は有ったかもしれない。
 暫くすると。試運転電車接近の旨のアナウンスが2面4線の構内に木霊する。ホームの壁に反射する2つの光の筋…

 「前部標識良し!」
 前灯の点灯、尾灯、急行灯の消灯、列車番号表示99 、種別 黒、行先 試運転、1つ1つを指差し、声を出して確認する。本番では車内に各国の要人達が…でも、今日は室内灯すら点灯していなかった。
「こんなもんか…。」
ふと、訓練運転への意欲が薄れてくる。608−1と表記された赤い車体は、泉岳寺のホームに停車した。

 俺や勝島さん含め5人の関係者を乗せた乗務員室は何時に無く狭い。衝撃吸収構造とはほぼ無縁な京急の車体は、出来るだけ御客様のスペースを広げる為にも、乗務員室は小さく作られていた。息苦しささえ覚える現状に、室内灯が消えて真っ暗になった広い車内が羨ましかった。
 電車は発車するとトンネルを抜け、地表に顔を出す。真夜中でも明るい大都会の品川。街の灯りが、室内に注ぎ込んで来る。大抵の電車が停車する品川駅を45km/hのゆっくりとしたスピードで通過する。
「第1出発、進行!」
乗務員室には、指差喚呼の5重奏が余韻を残していた。

 時刻は翌日1時を回っていた。終電も終り、併走する高速道路も寂しげに感じられる。その中でも、夜の闇を切り裂く京急電車は、より速く見えた。
「懐かしいな…。」
2000形がブルーリボン賞を取った頃、俺は未だ中学生だった。用事も無いのに実結を誘っては清新町から遥々品川まで出向き、「電車デート」して、夜遅く帰っては実結のお母さんに叱られたよな…。

 ―は!?

 俺が中学生?清新町?実結?それに、「懐かしい」って…まさか?俺は逃げようとしていた記憶を懸命に追おうとした。しかし、何かモヤモヤした"それ"に阻まれる様な、そんな気がしたのだ。
 気付けば、電車は既に三崎口へ到着する寸前。分岐器を軋ませながら、1番線へと進路を取っていた。

 「兄ちゃんよぉ、何か考え事してたろ?」
後からポンと肩を叩かれる。関係者が去ったホームで、勝島さんは俺に聞く。
「魂が抜けたみたいだったぞ?」
と。電車のハンドルを握りながら隣に居た俺の様子まで把握している…何十年も電車のハンドルを握る。それは、こういう事なんだ…。
「昔の…記憶が、一瞬だけ、想い出せた様な気がするんです。」
丁度、大森海岸を過ぎた辺りだったろうか。
「今日、そんなに速度出してませんよね?」
「そうだな…あのスジ(※)なら105km/hで充分だからな。」
105km/h…それは、快特が120km/h運転を開始する以前の最高速度…。何か、関係アリか?
「御召まであと2日だ。可笑しな邪念を持つな。」
それが、天才運転士の戒めだった。

 翌朝、俺は未だ日も昇らない肌寒い三崎口のホーム。電車を"起こす"作業だ。
「パンタ上昇、良し!」
パンタグラフの上昇スイッチを捜査すると、遠くの方から乾いたパンタグラフの接触音。全4基のパンタグラフの上昇を外に出て確認する。
 最後に前灯を点灯させる。朝霧を切裂く1本の光が、鈍く線路に反射する。
 「出発、進行!特急!ATSよし!」
こうして、今日も始発電車521Hはトンネルの向こう、青砥までの道程を駆け出した。

 人は何故過去を追い求めるのだろう。例え俺の過去が全て分かったとしても、今の俺が変わる訳じゃないんだ。それに、自分が予想してたよりも、ずっとずっと嫌な過去なら想い出さない方がマシ…違うか?
 そんな事を、俺よりも年上の1000形の運転台で呟いたりもしてみた。答えなんか、返ってくる筈も無いのに…これじゃ、壁に話してるのと同じだよな。

 「場内、注意!3番!制限40!了解、特急、久里浜停車!」
黙っていると、色々な事を考えてしまう。そんな雑念を振切りたくて、何時もより大きめに声を出してみる。朝の澄んだ空気と、人気の無い車輌の中に喚呼が響き渡り、何となく孤独感を覚えた。
「到着、定時!」
片開きのドアが開くと、ポツリ、ポツリと御客様が乗って来た。

 文庫で交代、その後は521 で新町まで上る。終業点呼を受けると、急に緊張が高まる。明後日が…御召。
「よっ!」
物思いに耽っている最中、突然後から膝蹴りを食らう。
「痛っう〜。」
ジンジンと痛む背中を摩りながら後を振返ると、其処にははにかんだ笑顔を見せる実結。
「よっ!始発乗務御疲れ様。」
館山さんの口真似をしながら、無邪気に実結は声を掛けた。幼い容姿が愛らしくなり、それを引立てているふっくらとした頬を突付いてみる。すると、照れ臭そうに微笑んだ後、俺の耳元でこう言った。
「御召列車の添乗、頑張って来てね。」
頬に、そっとキスを添えて…。

   7月23日

 時計は12時6分を指している。訓練運転とはうって変わって物々しい警備の泉岳寺駅のホーム…接近放送が鳴った。
――来る!




※スジ 列車の運行計画を記した列車運行図表(ダイヤグラム)上の斜線の事。斜線1本1本が列車を表す。

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