42 小川のせせらぎ

 「あなたが、富浦…実結さんですか?」
「えっ!?」
実結は自分の名札を指し示し、自分が馬堀実結である事を伝えた。だが、実結の脳裏では、ある事を思い出していた。実結の両親が離婚する前、自分は「富浦実結」という名前だった事を。
「御時間、頂けますか?」
実結はそう言うと、その女性を電車から降ろし、駅務室へと連れて行った。

 散らかった物々を実結は手早く片付けると、その「乗務員休憩室」へと女性を招いた。
「どうぞ御掛け下さい。」
制帽を脱ぎ置き、御茶を汲み始める実結。脇目に女性を見ると、ぐったりした感じで目は泳ぎ、顔色も思わしくなかった。
「大丈夫ですか?」
湯呑を女性の前に置く序に聞いてみる。女性は何の反応も示さなかった。
 実結は一息置いて切り出した。
「私、子供の頃、"富浦実結"って言う名前でした。両親が離婚して"上田実結"になって、雄大くん…私の旦那と結婚して、今の"馬堀実結"になりました。」
すると、女性は口を開いた。
「やっぱり、実結ちゃんなんだね。」
「…はい。」
実結の小さな返事を確認すると、女性は目に涙を溜めた。
「…覚えてる?…私だよ、実結ちゃんの叔母さん。実結ちゃんの御父さんの妹だよ。」
実結は言われ、驚きを隠せなかった。もう一度よく顔を見てみる。しかし、記憶にあるどの顔とも一致しない。
「覚えてる?」
「…ごめんなさい。」
 「バカ。」
実結は自分を怒った。どれ程自分の事を呪っただろう。例え別れてしまった人間だとしても、その存在も、顔すらも全て忘却してしまったという事を。
「本当に…哀れだね。自分の娘を捨てた人間は、自分の命にまで忘れ去られてしまうんだね。」
女性の言葉に、実結は耳を疑った。
「私の娘が、世話をしてくれている"実結"と言う名前の女性が"赤い電車"の車掌さんをやっている。ってTVで言っていたの。それを聞いて、実結ちゃんの事だと思って、此処まで自分の娘…愛香を、迎えに来たんです。」
…ウソ、でしょ?
 実結は手が震えた。突然の出来事に、自我をコントロール出来なくなった。
「愛香ちゃんの…御母さん?」
女性は、コクリと頷いた。

   ―

 御召列車の運転も終わり、駅務員室で一息付いている、突然俺の携帯電話が鳴り出した。着信メロディー"PASSENGER"。…電話?サブディスプレイには「着信 実結」の文字。
 ? 仕事中だぞ?
「…もしもし?」
すると、電話の向こうから引き攣った声。
「雄大くん!?私、実結。…愛香ちゃんの御母さんが、御母さんが見つかったよ!」

 …は?

 「愛香の…御母さん?」
「うん。今、羽田に居るんだけど、新町の駅前で待っててくれる様に言ってあるから。終業点呼終わったら駅前に来て!じゃ!」
直ぐに電話は切られた。…何だよ、それ。

 緊張の面持ちで新町乗務区を出る。何時もなら愛香や実結に1秒でも早く逢いたい一心で心を踊らせながら出る新町の構内でも、今日に限って足取りは重かった。
 改札の向こうに、実結と女性の人影が見える。黒く長い髪をし、其れと同様の色の服を着た女性の顔色は、御世辞にも優れているとは言い難かった。何か、大切なものを失った…そんな感じだった。
「御待たせしました。」
女性に近づき軽く挨拶をする。
「夫の、雄大です。」
実結は直ぐ紹介する。
「愛香の…母の、馬堀恵美子と申します。」
間髪入れず、恵美子は言った。
「愛香は…元気ですか?」
「安心して下さい。皆の愛情を受けて、真直ぐ元気に育ちましたから。」
実結は言った。そして本人に逢わせる事も考慮し、丁度接近メロディーの鳴ったホームへ移動を促した。愛香の居る北品川に停車する普通車だ。

 600形4連のクロスシートに向い合って座る産みの母と育ての父母の構図は奇妙だった。車内から見える京急の車輌に実結は目をやり恵美子に言った。
「愛香ちゃん、赤い電車が大好きなんです。私達も愛香ちゃんの様な子供達にたまに手を振られたりしますけど、その時本当に"鉄道員になって良かった"って思えるんです。嗚呼、今日も子供達のユメを運べたんだなぁ…って。」
だが、その言葉はこの空気を破る打開策とはならなかった。唯、恵美子が小さく頷くだけで。

 北品川の駅前にある喫茶店「ヤシオ」。久しく来ていなかったが、まさかこういう形で寄る事を夢にも思っただろうか。
オーダーをして少し経った後、俺は口を開いた。
「俺が愛香と出逢ったのは、18歳…愛香が2歳5ヶ月の時でした。品川の駅で、迷子になっている愛香を保護しました。その時、愛香が貴方達両親が羽田行きの電車に乗って行ったと言っていたので追いかけたんですが…。」
再び沈黙が訪れた。言葉に詰まる3人の耳には、"PASSENGER"のオルゴールのみが入るだけで。

 長い事口を閉ざしていた恵美子は、俯きながら小さく口を開いた。
「私達はあの時…そう、6年前の4月28日、京急線の品川駅で愛香を置去りにしまし、羽田から外国へ飛び立ちました…」
話す内に言葉が途切れ途切れになり、恵美子の膝に大粒の涙が落ちるのが見えた。気まずい雰囲気に、俟たしても俺は声が出なくなった。
 ふと下を見ると、実結の拳が強く握られていた。そして小さく問う。
「何で…そんな事をしたんですか?」

   ―何故、愛香ちゃんを置去りにしたんですか?―

43話 光と風と へ

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