7 秋桜

 1995年11月18日
 愛香との生活にも慣れ、いつものようにバイトに向かった。外から見れば誰もがそう思うだろう。しかし、俺はあることをおきてからずっと気にかけていた。
 「今日は愛香の誕生日だ。」
第一京浜の歩道を歩きながらずっとそんなことを思っていた。かすかに警笛が聞こえると八ツ山が近づいてくる。いつもの道がなぜか変に感じた。生まれてこの方人の誕生日なんか祝った覚えがない。ケーキをあげることぐらいは承知ではあるが具体的にはまったくの浦島太郎であった。

 「ご乗車有難うございます。急行、羽田行きです。当駅を出ますと・・・」
仕事にも身が入らない。今日は特につらく長く感じた。なぜか頭がボーっとしてしまう。赤い京急の車両が、今日はやけに赤く見えた。
 家路に着く直前に、ヒマワリの花が咲いて言うので驚いた。これもさめづさんが育てたものなのだが何かと季節外れの植物が多い。家の中に入るともう愛香は帰ってきていた。
 「おつかれさま。」
幼い声が返ってくる。愛香。かわいいな。
 「なんで今日お兄ちゃんも鮫洲さんも五反田さんもお仕事なのに亀戸さんはお休みなの?」
亀戸さんとはアパート「追浜壮」の104号室に住む京急の車掌で48歳のベテラン鉄道員である。愛香には鉄道員の出勤体制がまだ良くわかっていないようだ。亀戸さんの話題を持ちかけたと言うことは亀戸さんに愛香の送り迎えしてもらったんだと予想がつく。
 「電車の人はみんなお休みがバラバラなんだよ。」
適当に説明しておく。
 30分ぐらいたって、いかにもわざとらしく、
 「今日、これからまたお仕事行かなきゃ行けないんだ。」
もちろん嘘である。愛香のバースディケーキをとプレゼントを買いに出かけるためのアリバイである。
 「また亀戸さんのところでお留守番してて。いい子にしてるんだよ。」

 品川の駅前に繰り出した。あちこち店を探すと日が暮れてしまうぐらい店が軒を並べているので駅に直結している京急ストア(Wing高輪)で済ませることにする。
 「この大きいやつ下さい。」
 「お名前入れますか。」
店員が尋ねる。
 「はい。あいかちゃん で。」
 「はい。」
ちょっと照れくさかった。よくわからないが少し恥ずかしかった。こうして、バースディケーキを買った。プレゼントのほうは中に手を入れて動かせるタイプの(いわゆるパペット人形)あらいぐまを買ってきた。気に入ってくれると言いのだが・・・。

  「おかえり。」
きらきらした目がこっちをまじまじと見ている。
 「ただいま。」
と返す。
 「お兄ちゃん。お馬さん。」
 「はいよ。」
今日はいつもよりたくさん愛香と遊んだ。愛香の誕生日なのだからちょっとぐらいはめ外して遊んであげた。6畳1間のアパートをひたすら這いずり回っててもに遊んだ。
 これほど「かわいい」という言葉が似合う人はいない。愛しすぎる。
 「お兄ちゃん。だっこ。」
 「了解。」
俺は愛香を抱き上げた。このままずっと抱いていたい。しばらく2人で見合っていた。そしたら、
 「お兄ちゃん大好き。」
と一言言って俺の頬に軽くキスをしてくれた。
 「愛香。」
愛香、好きだよ。

 時計の針は17時45分を差した。
 「愛香、おいで。」
 「なーに。」
昼間買ってきたケーキを出す。
 「お誕生日おめでとう!」
と俺は一人で拍手した。
 「?」
長い長い沈黙の後俺は目を疑った。愛香はしずくを頬に伝わせていた。その柔らかい頬に。
 「どうした?」
俺は尋ねる。愛香はしばらく黙ってこう言った。
 「何で?何で誕生日なのにパパもママもいないの?みんないつもパパとかママとかと一緒なのになんで私だけ一人ぼっちなの?なんでパパとママは帰ってきてくれないの・・・。」
愛香・・・。
 困らせてしまった。悲しませてしまった。ごめんな、愛香。でも仕方ないんだ。俺にはどうすることもできないんだ。俺だっておかしいと思うさ。でも、仕方ないんだ。愛香、泣かないでくれ。お願いだから泣かないでくれ。
 俺は買ってきたあらいぐまの人形を出した。人形を手にはめて人形の手足を動かしながら
 「泣かないで。大丈夫だよ。」
これでも慰めたつもりだった。でも愛香は情けをかけたのか無理にでも泣くのをやめようとしてしゃっくりを何度もした。でも、だんだんつらくなってきてついに大泣きしてしまった。
 しばらく、時が流れた。困り果てた俺は
 「電車見に行こう。」
 まだ少し泣いている愛香を背負い北品川の駅に向かった。俺はできることはこのぐらいしかなかった。自分の無力さに憤りを覚えた。
 久しぶりに快特に乗った。クロスシートの2000形にのって愛香と一緒に1番前の席に座った。(1番前の座席はロングシート)2000形は秋の風を切りながら久里浜へと向かっていった。愛しい愛香を慰めながら―


第8話 スプリングボックス へ

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