8 スプリングボックス

 「お兄ちゃんは大きくなったら何になりたい?私はテレビに出て赤い電車の運転士になるの。」
「俺はもう大きいけど、京急の運転士になりたいな。」
 すっかり泣き止んだ愛香と俺は帰りの快特の中でこんな会話をしていた。
「赤い電車の運転士さん、みんなかっこいいね。」
「うん。」
 子供の正直なまなざしに写るのはいつもきびきびとしている京急の乗務員だった。紺色の制服をまとった赤い戦士たちは愛香の憧れだった。俺もうんと小さい頃から京急の運転士を目指してがんばってきた(様な気がする)が、2歳の愛香に俺を「運転士さん」としてみてもらえないのがほんの少し残念だった。自分のためにも愛香のためにも絶対に京急の運転士になる。
 電車は金沢文庫に進入する。
「第2場内、警戒!制限25!」
「到着定時!EBよし!ATSよし!マスコンキーよし!」
 電車は止まりドアが開く。ホームの先端には交代する運転士が立っている。
「快特8両、異常ありません!当駅より快特12両です!」
「快特8両、異常ありません!当駅より快特12両です!」
「お願いします!」
「お疲れ様でした!」
「敬礼!」
乗務員の引継ぎ作業である。このあとに交代する運転士は車両の前面に回る。
「前部標識、番号11A!種別快特!行先、高砂!前照灯よし!急行灯よし!」
続いて運転台に乗り込む。この確認動作を見るよりもこの動作を見ている愛香を見ているほうが面白かった。目をまん丸にさせ口は開けっ放し。でもそれはそれでかわいい。そんな愛香の横顔を見ている間にも
「ブレーキ試験、圧力よし!圧力よし!緩解よし・・・・」
この出発前の確認動作を見ている愛香が声にならないような驚きのうなりを小さく出しているうちに俺の頭の中で不思議な光景がよみがえってきた。

「やった。2000形だ。」
やけに2000形がピカピカである。まるで登場時のよう。ブルーリボン賞受賞と記してあるプレートがある。少年は運転台の前に行く。こいつは誰だ・・・。まさか、俺じゃないよな・・・。

「第1出発、進行!快特、次、上大岡停車!」
の喚呼で現実の世界に戻ってきた。
「お兄ちゃん、何ボーっとしてんの?」
「う、うん、なんでもない。」
 赤い電車の運転席では、今も職人技が繰り広げられている。
「快特!上大岡停車!」

 翌朝、愛香がすごいことを口に出した。
「しながわ、きたしながわ、しん・・・・・。あれ?」
 2歳にしてこの暗記力。(決して当人は覚えようとして覚えたのではないだろうが・・・。)すごい。愛香は天才じゃないか?今、読者に皆様も俺に向かって親バカだの兄バカだの思った人も多いだろう。事実、俺も自分に対して親バカだと思った。
「新馬場。」
「しんばんば?」
 まだよく「しんばんば」の発音ができていないが、理解はしている。
「しながわ、きたしながわ、しんばんば。」
俺が愛香にこんな風に教えていると、ある差し迫ったことを思い出した。思い出すと言うのも変だが自分はいかにも大学生。一通りの単位をとって2日休んだが明日はそうも行かない。今日は目一杯愛香と遊んでおこう。
「愛香〜。」
「お兄ちゃん。」
 子供のきらきらした目はいつ見てもいいもんだ。また明日から忙しくなる。学校とバイトと子育ての両立がここまで大変だとは思わなかった。でも、ずっと愛香のそばにいたい。ずっと見ていたい。気づくと俺は愛香に向けてカメラのシャッターを切っていた。その笑顔を残しておきたくて・・・。
 その写真は、今日から肌身離さず持っていようと思う。

 11月も終わりに近づいてきた11月29日。帰宅途中の山手線車内。突然の車内アナウンスが流れた。
「た、ただいま、お客様が線路内に侵入したため人身事故が発生しました。しばらく停車いたします。ご乗車のままでお待ちください。」
 車掌はこれからあるものを処理しなければならないためか声が震えている。乗客はざわついているが自分は一向にあるものに対する恐怖感がまったくと言っていいほど無い。直接的にいうと、
「轢死体になぜか慣れている。」のである。よく鉄道を利用するせいか人身事故にはよく会うのだがまったく恐ろしくない。これはいいことなのか悪いことなのか教えてくれる人もいない。たとえいたとしても他人に教わりたくなんかない。そんな時、頭の中で愛香とあるものが突然オーバーラップして見えた。とたん俺は耐えられないほど悲壮感が沸いてきた。確実に愛香は俺の特別な存在になっている。わずか1年足らずの間で。まるで妹のように娘のように―


第9話 新たな季節 へ

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