17 airly

 「もしもし、戸部です。」
「あの、戸部雄大さんですか?昨日、品川の駅でぶつかった車掌の、上田実結(うえだ みゆ)と申しますが・・・。」
「は、はい。」
「昨日、あの時乗務手帳を落とされたみたいなんで届けたいんですが、今日、空いてます?」
電話の声は、昨日の女性車掌だった。その質問に俺はカレンダーを睨む。4月29日には「休」という文字が赤いボールペンで記されている。
「空いてますけど。」
「あの、乗務手帳の住所の欄に"品川区北品川1−20−X"って書いてあるんですけど、京急の北品川駅の近くですか?」
「はい。」
「じゃあ駅前で9時に待ってます。」
「は、はい。」
そう言うと、すぐに電話を切られてしまった。よく聞いてみれば声も愛香によく似ているのである。
「お兄ちゃん、行ってきまーす!」
 そんな愛香を学校へ送り出すと、俺はフラフラと家を出た。駅までの何時もの道が何故か遠く感じた。桜の花びらが散ってゆく道を、唯、只管下を向いて歩いた。

 8時31分。少し早すぎたか。俺は、暫く駅前で待つことにした。ものの5分も経つと上り電車の到着と共に人がパラパラと降り始めた。自動改札の鋏を入れる音、エアーの音、モータの臭い、赤い電車。全てが日常の光景なのに違って見えた。
「戸部雄大さんですか?」
女性の声が聞こえたのは、その時だった。
「なんか、待たせちゃいました?」
「いや、良いですよ。」
「あの、此処で立ってお話しするのも難ですから、何処か行きません?」
緊張の所為か、女性の声は少し途切れ途切れだった。

 駅前の喫茶店「ヤシオ」、俺たちは何の取り止めも無く入っていった。古めかしいレトロな店内は、騒がしい品川からシャットアウトされた様な感があった。2人は向かい合わせに座り、暫く黙り込んだままだった。
「あの、乗務手帳、お返しします。」
幼く聞こえる声と共に、白くて細い手から俺の乗務手帳を渡された。仄かに暖かい乗務手帳に、俺は眼をやった。
「乗務手帳 戸部雄大」
未だ真新しい手帳。これから何が埋まって行くのだろうか。
 コーヒーの香りだけが際立ち、話題の無くなった二人の沈黙が続いた。不安になって彼女の顔を見ると、俯いた表情が何処か寂しげだった。こんな状況を打開しなければと思い、俺はこんな言葉を口にした。
「この曲、何ていう曲ですか?」
店内に流れるオルゴールの事だった。そのオルゴールは、前に愛香と聞いた不思議なオルゴールと全く同じだった。
「知らないんですか?PASSENGERですよ。」
彼女の口から出た答えを、俺はもう一度尋ねる。
「PASSENGER?」
「はい。」
PASSENGER、つまり、「旅客」という意味だ。一口コーヒーを飲むと、彼女は続けた。
「確か・・・谷上(たにがみ)・・・。下の名前、忘れちゃいました。名前の最後に「あ」がついたような・・・。私が高校生の頃、同じ位の歳の女の子が歌って結構ヒットしたんですよ。」
こんな俺でも分かる位良い曲だった。この何気ない話題が、2人の緊張を少し和らげた。俺は彼女が同じ京急の乗務員であることを思い出し、彼女にこう言った。
「上田さん、ですよね。」
「あっ、すいません。まだ私のこと何も言ってませんでしたね。」
彼女はこう呟くと続けた。
「私、上田実結と申します。"上田さん"って呼ばれると恥ずかしいので"実結"って気軽に呼んで下さい。」
実結はそう言うと、ペコリと頭を下げて礼をした。
「俺、戸部雄大っていいます。新町(乗務区)の運転士です。」
この後も、互いの自己紹介の様な形で話が進んだ。俺が何かを話すと、優しい笑顔で答えてくれる実結に好感を持った。何だか日頃の疲れが取れたような気がする程楽しい会話だった。
 実結は2杯目のコーヒーを一口飲み、こう言った。
「出身はどちらなんですか?」
俺は、その質問に答える事が出来なかった。どんなに懸命に記憶を手繰っても分からなかった。黙ってしまった俺に実結は慌てて
「えっ、あ、ごめんあさい。」
少し戸惑いがてらに質問を取り消した。その後、また元の様に2人とも口を開かなくなった。俺は、実結に俺の事を話したかった。でも、分かってくれる筈はない。
 実結は俺の沈黙を断ち切るように、出来る限りの笑顔を作った後、
「戸部さん。」
と弾む様に言った。
「あの、雄大って言ってもらって構わないですよ。」
俺がそう言うと、実結は幼馴染のお姉さんのような口調で、
「なんか敬語だと悪い気がするから、普通に喋ろう。ね。」
実結の優しい言葉。でも、その言葉が無理に明るく言っているのが目に見えるように分かった。
「うん。」
 そして、暫く会話がなくなった後、実結は今まで言いたそうにしていたことを喋った。その言葉は、俺が全く考えてもみない事だった。
「中学校の時の、雄大くんだよね?」
「!?」
静かな口調の実結とは裏腹に、俺の体に電気が走った。そして、実結はもう一度繰り返した。
「中学校の時の、雄大くんだよね?」
「私だよ、上田実結。同じクラスの。」
実結は不安げに、早口にこう言った。俺は覚悟を決めた。
「ごめんなさい。俺、昔のこと何も覚えてないんだ。」
俺の言葉に、実結はショックを受けたようだった。実結の言葉に念がこもった。
「修学旅行も?臨海公園でデートしたことも?あの日の約束も?」
俺は小さく頷くと、俯いた実結の瞳から雫が零れ落ちるのが見えた。
「雄大くん!」
実結は強く俺の名を呼ぶと、喫茶店を駆け出した。実結はいつの間にかメモ用紙を机に残し、3杯分のコーヒー代900円も置いてあった。メモにはただ、「品川区北品川2−31−X 上田実結 Tel 03-XXXX-XXXX」と記されているのみだった。

 俺は帰り道、ずっとこの言葉が気がかりだった。
―あの日の約束―
 一体、その"約束"とは何なのだろうか…。


第18話 花と空 へ

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