28 せせらぎ

 「愛川田代〜。愛川田代〜。」
負けを確信した俺と、久所からそのまま運転を続けた翔歌を乗せたデハ700形は滑るように愛川田代に入線した。全てはわかっていた。俺が、年下の女性乗務員にすら到底及ばない事、翔歌の運転技術は堅実な勉強と実地トレーニングによる磨き上げられた技術の賜物と、車輌と心が通じ合えるその思いやりから来るものだと。そんな運転技術の持ち主こそ"神の子"に相応しいのではないか。"神の子"は、乗務を終えた後も疲れた顔何一つせず御客様の案内に当たっていた。

 帰路は相武電鉄の最新鋭車輌、JR横浜線直通用の2500形の回送に便乗することになっていた。だが、運転技術を盗み取る事等忘れ、ただ呆然と車窓を眺めているだけだった。窓の外に映る景色が言っていた。俺に鉄道を運転する資格など無いのだと…。

 愕然とした気持ちでやっと出向初日の仕事を終えると、俺は楓里と翔歌に楓里の住む相武電鉄のの社宅に呼び出された。それは、「出向期間中は出向先の施設に宿泊する事」という上からの訳の分からない辞令からかも知れない。
 小さいテーブルに3人とも車座になって座ると、落ち込む俺に翔歌は声を掛けた。
「元気出して、ね。」
それに楓里は続ける。
「そうですよ。今日は偶々運が悪かっただけですよ。」
そういうと、楓里はコップに麦茶を注ぎ始めた。
 其の場に、真っ白な沈黙が流れた。俺は、俯き考えた。愛香と出逢った頃、まるで小学生のように"京急の運転士になる"という夢を追っていた。鉄道現場の実情なんか何も知らないくせに。そして、そんな夢を引き摺ったまま俺はいつの間にか京急の制帽を被っていた。でも、それは俺の予想とは全く違う鉄道現場、理詰めだけで完璧にこなせた京急の運転、マンネリ化した毎日。今の俺は、何のため、誰のために電車を駆っているんだ?俺がしている運転は、独身男が孤児を養うための、明日の飯のためだけの運転なのか?…夢も、憧れももう何も無いんだ。…俺は、こんな辛い思いをしたり思い悩んだりするために鉄道員になったのか?これが、今の俺が本当に俺や愛香が憧れる「赤い電車の運転士」なのか? ―違う。俺は今の俺のようになるためにマスコンを握っているんじゃない。 俺は、心に決めた。
「…俺を、俺を本当の"神の子"にしてください!」
俺は、心の奥底から叫んだ。裂けんばかりの大声で、あたかも過去の自分を消し去るかの如く。
「えっ!?」
翔歌と楓里は、驚きの余り口を開けたまま突然叫んだ俺のほうをまじまじと見た。
「…俺、気付いたんだ。京急で運転士になれて、今まで其の生活に甘えていたこと。鉄道員というものを知らずに、低く考えすぎていたこと…。」
俺は翔歌を見た。
「翔歌さん、ごめんなさい。」
そう言うと、翔歌はその過去の辛い経験からなのか目に涙を浮べつつも優しく笑って見せた。
「ううん。ありがとう。少しの間だけど、一緒に頑張ろう!」
翔歌は俺にそう言った。その言葉は、俺の暗く沈みきった心に一筋のせせらぎが聞こえたような気がした。
 そして、相武電鉄での1週間が始まった―

 「お早う御座います!」
自動改札を抜ける御客様に、俺は唯一心に真心を込め挨拶をする。
「如何ですか、戸部さん?駅務の御感想は?」
後から楓里が声を掛ける。
「御客様と接することがこんなに大変だとは思いもしませんでした。」
俺が率直な感想を述べると、翔歌は言った。
「うん、人の気持ちを聞き取ることが出来るのは、やっぱり人なんだよね。」
「さ、がんばって。」
「はい!」

   ―

 病院の一室に、富浦さんと勝島さんはいた。
「大丈夫ですか、御怪我の方は?」
富浦さんはベットに横たわる勝島さんに言った。
「はい。この位なら来週辺りには復帰できそうです。ヤブ医者から全治3週間とか言われやしたけど、こちとらぁ体が丈夫に出来てんだから大丈夫ですよ。」
勝島さんはそう言うと、足を摩りながら笑って見せる。一息置いて言った。
「それにしても…あの子、大きくなりやしたねぇ。」
「戸部くんのこと、ね。」
「もう、俺の必要も無ぇのかなぁ?」
「入社したばかりの頃はあんなに幼かったのに、たった2ヶ月でここまで成長するなんてさすが"神の子"ね。」
「ははは…。"運転の神"、3代目ももう直ぐですね。初代さん。」

   ―

 「相武電鉄への出向ですか。懐かしいですね。」
「笠幡屋」に来ていた鮫洲さんは、一緒に来ていた亀戸さんと館山さん、五反田さんに言った。
「鮫洲さんも相武電鉄に言ったことが有るんですか?」
亀戸さんは言った。
「ええ。私も入社したばかりの頃に行ったんですよ。其の時は検車に居たんですけどね。今考えてみれば、あそこに行って仕事への思いが変わりましたね。」
「戸部さんも、今頃相武電鉄で頑張っているんでしょうね。」
「きっと、大きくなって帰ってきますよ。人間として、鉄道員として…」

   ―

 「えみり、…雄大くん…好き?」
東八ッ山公園で会話しているのは、まなみちゃんとえみりちゃんだった。
「? うん。…でも、何で?」
「…なんでも無い。ただ聞いてみただけ。」
「あー!やっぱりお姉ちゃん、雄大くんのこと好きなんだー!」
「ち、違っ…」
「わぁー。赤くなったぁー!」
「こらっ!待ちなさい!」
姉妹は、そう言って駆けて行った。

 「…。まなみちゃんも、雄大くんのこと好きなんだ。…雄大くん、美咲のこと如何思ってるのかな…?」
それを見かけた美咲ちゃんは、夕方の公園で一人思い悩んでいた。

   ―

 「…あのさ、実結ちゃんは如何して赤い電車の車掌さんになろうと思ったの?」
愛香は、いつの間にか俺の部屋に居座った実結にそう尋ねた。そして、付け加えた。
「この前、"小さい頃は幼稚園の先生になりたかった"って…。」
「うん…。雄大くんのことが、忘れられなかったからなのかな?雄大くんは覚えてないけど、"あの日の約束"、まだ果たせてないもん。それに、私、やっぱり雄大くんの事好きだから…。」
実結は言った。
「愛香ちゃんも雄大くんの事好き?」
「うん。お兄ちゃん、1番大好き。」
「2番目は?」
「実結ちゃん。」
「えっ、本当に!? ありがとう!」
実結は、思ってもいなかった愛香の返事に歓喜した。その様子を見て、最近余り喋らなくなった愛香が珍しくからかい半分に言った。
「お兄ちゃんと将来、"けっこん"するんでしょ!?」
「あはは…。…そうだったら良いのにね…。」
実結の横顔は、軽薄な言葉とは裏腹に、やけに悲しげだった。
「…雄大くん、本当に忘れちゃったのかな?"あの日の約束"」
「ん?何か言った?」
「ううん、何でも無い。」

 幾多の想いのせせらぎが、今日も北品川に流れていた―

 そして、1週間が経った。


製作協力 N.Toyoshima様

29話 清流 へ

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