31 Cielo Estrellado

 「御乗車有難う御座いました。子安、子安です。」
車掌のアナウンス。朝ラッシュも一息ついた9時頃、車輌は700形4連。京急鶴見で特急の、平和島と鮫洲で快特の通過待ちがある。更に、京急川崎でも後続快特の待ち合わせがある。それゆえに、自車が遅れると全線のダイヤを乱しかねないタイトなダイヤだ。
 勝島さんは言う。
「700ってのはな、M車(※1)の比率が少ないから他の車輌に比べて加速が悪いんだ。気ぃつけないと遅らしちまうからな。」
発車時刻迫る子安のホーム。勝島さん言い残す。
「何か、起こりそうだな。」
不思議と俺も同感だった。これといって違和感も無い。唯、何故か不吉な予感がさっきから全身を駆け巡っているのだ。
 ドアが閉まる。
「出発、進行!普通!ATSよし!発車定時!次、新子安停車!」
頭の隅に、ぞわぞわした潮騒のような予感を振切り、俺はマスコンを握る。

 京急鶴見で特急退避。暫くの待ち合わせ時間に、ふと俺はこんな事を思い出す。
 まだ俺が入社したての頃、もう今は定年になった富浦さんは言っていた。
「"神"とまで言われる腕を持つ運転士はね、時として不思議な感覚で事故を予測することがあるらしい、ね。」
そうよく言っていた彼も、事故の前兆に不可解な頭のざわめきを覚えたという。
 特急が電子笛を鳴らし猛スピードで京急鶴見のホームを通過する。出発信号が進行現示になった事を確認し運転台に戻ろうとした、その時だった。運転台に運輸指令(※2)のチャイムが鳴り、聞き覚えのある声が聞こえる。
「こちらは運輸指令。747 運転士、応答願います。どうぞ。」
その声は紛れも無く鮫洲さんの声だった。不安になり俺は勝島さんを見る。「早くかかれ」と言わんばかりに目で合図する。俺は震える手で受話器を取った。嫌な予感がした。
「こちら747 運転士です。どうぞ。」
「と、戸部くんか?」
「? は、はい。」
「大変だ。愛香ちゃんが倒れた!」

 ―はぁ!?―

 発車時刻を遅らせる訳にもいかない。受話器を片手に運行を再開する。
「ちょっと、そんな事指令で…」
当然とも言える俺の返答に、鮫洲さんは感情を露にする。
「そんな事だと!愛香ちゃん、今、死にそうなんだぞ!」
鮫洲さんは続ける。
「さっき上田さんから連絡があったんだ。学校で突然、高熱を出して倒れたって!」
声を荒げる鮫洲さんに俺は言う。
「でも、今は乗務中ですよ!」
ちら、と勝島さんの方を見る。
「こんちくしょう!一世一代の大舞台じゃねぇか!」
そう言うと、勝島さんは受話器を奪う。
「あの娘の容体は?」
「意識無いです!今、救急車で病院に!」
焦る鮫洲さんを他所に、柄にも無く勝島さんは考え込んだ。電車は八丁畷を発車する。
「よし!交代要員を配置しろ!」
臨機応変、勝島さんは言った。
「川崎は間に合いません!蒲田も無理です!品川までは運転してください!」
期待を裏切る返事が返ってくる。俺はスタフに目をやった。品川着9時48分00秒。あと30分もある。今から駆けつけても手遅れかも分からないのに、30分も遅れればきっと愛香は帰らぬ人になっている。かといって俺は乗務中。終点まで走らせるのが運転士としての義務であり運命だ。

 ―お父さ・んとお母さんが青・い電車にね…―

 ―私、テレビに出られたんだね!―

 ―えへへ…来ちゃった。―

 ―お兄ちゃん…。―

頭の中で、走馬灯のように愛香との思い出が流れて行く。俺は、如何する事も出来ないのか?今日の朝、悲しいランドセルが愛香との最後なのか?
「助けて。」
ふと、愛香の声が聞こえたような気がする。もう、終わりなのか?あんなに大好きだった愛香と、こんな簡単にお別れなのか?
 俺は、そのときにはもうブレーキハンドルを非常ブレーキ位置へと運んでいた。誰が止めようが電車が止まろうが、例えどんな処分を受けようが解雇されようが如何でも良かった。病院へ、唯ひたすら走り続けた。俺が乗務区へ戻るときには、俺の名札は無いだろう。俺の勝手な判断の所為で、何万人もの人々が足止めされた事だろう。でも、それでも良かった。愛香に会いたい。そんな気持ちだけが、俺を病院へと走らせた。

 「愛香、しっかりしろ!」
京急の制服のまま、病室へと駆け込む。
「お兄ちゃん…苦しいよ…。」
引き攣る様な愛香の呼吸。握った小さな手から伝わる明らかに異常な体温。愛香を死なせない。そんな想いだけで、俺は愛香の名を叫び続けた。
 それでも、その小さな体に限界が近づき。ついに愛香は集中治療室へと隔離されて行く。

 「雄大くん。その格好、制服…だよね。」
集中治療室の目の前の長椅子で、指令へ通報した実結が突如駆けつけた俺に尋ねる。
「そうか。今頃、俺がこんなことしたから、ダイヤが乱れたのか。」
思い出したように自分の行いを振り返る。きっと、帰ったら俺は間違い無く解雇されているだろう。勤務時間に脱出した所か、勝手に電車を止めてダイヤを乱した。止めた電車を捨てて病院まで走り出した。後々になって事の重大さが背筋を攀じ登って来る。

 3時間後、愛香は数段顔色良く集中治療室から出てきた。回復の傾向が徐々に出てきたのだ。40℃余りの高熱の中、孤独な戦いを続けてきた小さな体は、汗で濡れていたがしっかりと艶を取り戻していた。病名は…過労だそうだ。8歳という幼さで様々なストレスを抱えた体が過熱したかの如く、数時間の間生死を彷徨っていた。医者は最後にこう付け加えた。
「最初は、もう手遅れかと思いました。あの子、ずっとあなたの名前を呼んでいました。あなたが来た途端、熱が引きましたよ。」

 愛香は助かった。だが、運転士 戸部雄大は…?乗務区に戻れば、俺の名札はあるのだろうか…。

   ※1 M車(えむしゃ) 主電動機(モータ)を装備している車輌。 対:T車
   ※2 運輸指令(うんゆしれい) 列車の運行管理を司る場所。雄大たちが「指令」と何度も言っているのは指令所と車輌間で交信している無線のこと。列車無線。

32話 高原 へ

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