37 旅立ちの鐘

   2001年4月28日

 俺は真新しい名札を手に取る。そこには、「運転士 馬堀」の文字。一種の生活していく、俺たちの娘となる愛香の事を考えて、俺達の苗字は「馬堀」になった。運転士、馬堀雄大の誕生である。
「そうか、ついに2人も結婚かぁ。」
乗務区に今まで御世話になった人たちが式場に集まった時、第一声を発したのは勝島さんだった。
「御2人とも本当に幸せそうですねぇ。」
と、五反田さん。
「子供の頃にした約束がこうやって叶うなんて本当にあるんだね。」
驚きと感心の声を上げるのは亀戸さん。
「2人とも、幸せになるんだよ?」
式が始まる前から感涙しているのは鮫洲さん。他にも乗務区の人たちがそれぞれに俺に言葉を掛けてくれた。
 こうして俺達が結婚式を挙げられるのも、実は館山区長を始め新町乗務区の多大な協力と好意によるものだった。新町検車区の留置線に停車している2100形。俺達は今、この中に居る。結婚式を挙げる金も時間も場所も見つからない俺達に、新町乗務区の皆は結婚式場として車輌用意してくれたのだ。
「じゃ、車内結婚式、"ドン"と行ってらっしゃい!」
館山さんの何時もの言葉に押され、俺は式場となる4号車の貫通路の扉を開けた。

 目に飛び込んできたのは紙で作られた沢山の花と飾りの数々。表面にある中吊り広告には「雄大くん・実結ちゃん 結婚おめでとう」の文字…そしてドア近くの補助席には愛香が座っていた。
「…これは?」
驚く俺に愛香は嬉しそうに言う。
「乗務区の皆と一緒に作ったんだよ!」
思わず後を振り返る。誇らしげに笑う乗務区の職員達…。
「みんな…。」
感激に浸るのも束の間、車内放送スピーカから亀戸さんの声が聞こえる。
「実結ちゃん方、準備オーライです!」
すると、目隠しのカーテンをしてあった浦賀方の貫通路の扉が開く。其処には、純白のウエディングドレスを纏った実結の姿。言葉にも表せない程美しいその姿。綺麗なドレスに包まれた笑顔が、太陽の様に輝いていた。
「似合ってる…かな?」
「うん。凄く綺麗だよ。」
「本当に、私達結婚するんだね。」
「指輪も無いし、ちゃんとした場所で式も挙げられなくて…ごめん。」
「ううん。正直、電車の中でこんな事出来るなんて思わなかった。皆のおかげだね。」
「ああ。そうだな。」
「何だか…夢みたいだね。」
「夢じゃない、だろ?」
「うん!」
そっと、実結の唇に重ね合わせた。途端、周りから盛大な拍手。
「誓いのキスだ!」
愛香はそう言って、俺達ににっこり笑って見せた。

 こうして、晴れて"あの日の約束"を果たすことが出来た。馬堀愛香、馬堀実結、そして俺、馬堀雄大の新しい生活が始まった。本当に何もかもが幸せだった。目が合えば、微笑んでくれる。声を掛ければ応えてくれる。そんな当たり前の仕草でさえ、本当に幸せだった。

 あれから3日経った非番の日だった。今日も指令で無線片手に赤い電車の運行を支えている鮫洲さんの娘2人の子守を支えることを兼ねて、まなみちゃんとえみりちゃんが俺の部屋に来ていた。ふと、目に留まったのはまなみちゃんの服装だった。
「そうか…まなみちゃんももう中学生か。」
着ていた近所の中学校の学生服。学校から帰ってきても珍しく着替えていない彼女の装いを見て、あんなに幼かったまなみちゃんももう中学1年生になったという実感が湧いてくる。
「ここ、解らないんだけど、教えてくれる?」
最近、まなみちゃんは勉強で解らない所があると、俺に質問をしてくる。
「何?…四角形ABCDが平行四辺形の時、三角形ABCと三角形CDAが合同である事を証明せよ…」
肩を寄せ合うように教科書を見せてくれるまなみちゃん。さらさらとした黒い髪が仄かに優しい香りを立てている。
「どうしたの?」
「ん?ああ…ここは…」
俺は彼女のノートに解答を書き始めた。俺の「京浜急行電鉄」のロゴが入ったシャープペンシルが合同条件を書き始めると、まなみちゃんは突然、こんな質問をした。
 「結婚って、どんな感じ?」
「えっ!?」
「実結ちゃんと結婚して、雄大くんも実結ちゃんも愛香ちゃんも、ずっと一緒なんだよね…きっと、何れ私の事なんて忘れちゃうんだよね……でも、何でなんだろう。もう諦めた筈なのに、雄大くんの事見る度に胸が苦しくて…。」
「…私の事を…1人の女として見てくれますか?」
その言葉を聴いた瞬間、シャープペンシルの動きが止まった。
「まなみちゃん…。」
「私がもっと大人だったら、ちゃんと雄大くんの事好きになれたのに…。」
俺は、彼女の見せる切ない横顔に何も言えなかった。まなみちゃんの見せる表情はその年齢より酷く大人びて見えた、なのに、着ているセーラー服も、彼女自身の顔貌も中学生そのものだった。
「…お姉ちゃん、大丈夫だよ。」
俯くまなみちゃんに横から声を掛けたのは、彼女の妹であるえみりちゃんだった。
「雄大くんは実結ちゃんと結婚するけど、雄大くんはずっと雄大くんなんだから。きっと、私達の事愛してくれる。」
6歳も年下のえみりちゃんの言葉。本当に嬉しかった。
「雄大くん、大好き!」
2人は、そう言ってしがみ付いてきた。

   5月8日

 俺の名札が「馬堀」になってから10日経った。出勤するなり区の乗務員を騒がせたのは、またもや1枚の告示だった。
「御召列車運転 7月23日」
昨年も同じ時期に三浦半島の先端で行われた海洋イベントに、諸外国の要人達を乗せて運行されていた。俺は担当ではなかったのでよく知らないが、京急の誇る天才運転士、勝島さんが完璧なな業務をこなしたらしい。貼り紙にはこう記されていた。
「運行担当 勝島」
至極当然だと思った次の瞬間、その下に信じられない文字が記してあった。

 ―添乗 馬堀―

 御召列車の添乗。唯事ならぬ予感と緊張が、本能的に俺を不安にさせた。

38話 木々の目覚め へ

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